
子どもの学力を考えるとき、私たちはどうしても「できる子」「できない子」という言葉で分けてしまいがちです。
しかし、実際に子どもたちを指導していると、学力が不十分な子どもは、決して「能力がない」わけではないと感じます。むしろ多くの場合、その子に合った学習段階、その子に合った問題、その子に合った時間のかけ方が用意されてこなかっただけなのではないかと思うのです。
聡生館では、学力の遅れがある生徒、勉強に強い苦手意識を持つ生徒、学校の授業についていけなくなった生徒を多く見てきました。その中で強く感じるのは、現在の義務教育には、学力差を前提とした教育設計がまだ十分ではないということです。
もちろん、公立学校の先生方が努力していないという意味ではありません。むしろ、現場の先生方は限られた時間と人数の中で、非常に多くの役割を担っています。問題は、個々の先生の努力というよりも、学校教育そのものが「平均的な子ども」を中心に設計されやすい構造を持っていることにあります。
文部科学省も近年、「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を掲げています。中央教育審議会の答申でも、子ども一人ひとりの特性や学習進度に応じた学びの必要性が示されています。これは、国の方針としても「全員に同じ授業を同じ速度で行うだけでは不十分である」という認識が広がっていることを意味します。
けれども、現実の教室ではどうでしょうか。
一斉授業の中で、すでに理解している子には簡単すぎる問題が与えられ、まだ基礎が定着していない子には難しすぎる問題が与えられる。結果として、できる子は退屈し、できない子はますます自信を失っていきます。
これは、本来の教育の姿なのでしょうか。
私は、学力の再生を考えるとき、病院の例えが分かりやすいと思っています。
もし病院が、自然に治る軽症の患者ばかりを診て、多くの手間と時間が必要な患者を見捨てるとしたら、それは医療として大きな問題です。本当に医療が必要なのは、簡単には回復しない患者です。時間がかかる患者、何度も処置が必要な患者、原因を丁寧に探らなければならない患者こそ、医療の専門性が問われます。
教育も同じです。
放っておいても伸びる子はいます。授業を一度聞けば理解できる子もいます。家庭学習の習慣があり、親の支援もあり、学習環境が整っている子もいます。
しかし、教育の本当の力が問われるのは、そうした子どもたちだけではありません。
むしろ、学力が不十分な子、学習習慣が崩れている子、どこでつまずいたのか自分でも分からなくなっている子に対して、どのように再び学ぶ力を取り戻させるか。そこにこそ教育の本質があるはずです。
全国学力・学習状況調査の分析でも、家庭の社会経済的背景、いわゆるSESが低いグループほど、各教科の正答率が低い傾向が見られることが示されています。ただし同時に、「主体的・対話的で深い学び」に取り組んだ児童生徒は、SESが低い状況にあっても正答率が高い傾向があることも示されています。つまり、環境による差は確かに存在しますが、教育の与え方によって、その差を縮める可能性もあるということです。
ここに重要な視点があります。
学力差は、単に子どもの努力不足だけで生まれるものではありません。家庭環境、学習経験、読書量、生活習慣、自己肯定感、学校での成功体験の有無など、さまざまな要因が絡み合って生まれます。だからこそ、全員に同じ問題を与え、同じペースで進めるだけでは、学力の差は縮まりません。
学力が不十分な生徒には、その子が解けるところまで戻る必要があります。
小学校5年生だから5年生の問題をやる。中学生だから中学生の問題をやる。もちろん、それが原則であることは分かります。しかし、実際には中学生になっても小学校低学年の計算で止まっている子もいます。文章題以前に、問題文を読むことそのものに困難を抱えている子もいます。漢字、語彙、数量感覚、集中時間、ノートの取り方など、学力以前の土台が崩れている場合もあります。
そのような子に、学年相当の問題だけを与え続けても、学力は再生しません。
それは、骨折している人に「周りと同じ速度で走りなさい」と言うようなものです。必要なのは、叱咤激励ではなく、リハビリです。歩く練習から始め、少しずつ筋力を戻し、やがて走れる状態に戻していく。その段階設計が必要なのです。
一方で、できる生徒には、できる生徒にふさわしい課題を与える必要があります。
すでに基礎が定着している子に、簡単な反復だけを続けさせても、思考力は伸びません。応用問題、記述問題、探究的な課題、教科横断的な問いなど、その子の力をさらに引き出す学習が必要です。
つまり、教育に必要なのは「平等」ではなく、公平です。
同じ問題を全員に与えることが平等だとしても、それが子ども一人ひとりにとって公平であるとは限りません。学力の再生において必要なのは、全員を同じ場所に並べることではなく、それぞれの現在地を見極め、その子に必要な学びを与えることです。
海外の教育研究でも、学習者の準備度、興味、学習上の必要に応じて内容や方法を調整する「differentiated instruction」、日本語で言えば「個に応じた指導」や「差異化された指導」の重要性が論じられています。Tomlinsonらの研究では、教師が子どもの readiness、interest、learning needs に応じて複数の学習経路を用意することが、学びの多様性に対応するために重要だとされています。
しかし、これを学校現場で本格的に実行するのは容易ではありません。
1クラスに多くの児童生徒がいる中で、一人ひとりのつまずきを把握し、教材を変え、課題を変え、進度を変え、評価方法まで変えることは、現実には大変な労力を必要とします。だからこそ、制度としての義務教育は、理念としては個別最適を掲げながらも、実際には平均的な授業に戻りやすいのです。
ここに、義務教育の大きな歪みがあります。
「すべての子どもに教育を受ける機会を保障する」という意味で、義務教育は非常に重要な制度です。しかし、機会があることと、その子に合った教育が行われていることは同じではありません。
学校に通っている。授業を受けている。教科書は進んでいる。テストも受けている。
それでも、子どもの中には、学力が再生されないまま時間だけが過ぎていく子がいます。小学校1年生の段階でつまずき、小学校3年生で分からないことが増え、小学校5年生で勉強そのものを嫌いになり、中学生になる頃には「自分は勉強ができない人間だ」と思い込んでしまう。
この流れを、どこかで止めなければなりません。
本来であれば、小学1年生になった瞬間から、真の意味での学習システムが稼働すべきです。子どもがどこでつまずいているのか。文字が読めているのか。数の感覚が育っているのか。話を聞いて理解できているのか。書くことに抵抗がないのか。集中できる時間はどれくらいか。家庭学習の支援はあるのか。
こうしたことを丁寧に見取り、必要に応じて学習内容を調整する仕組みが必要です。
学力の再生とは、単に点数を上げることではありません。
それは、子どもが「自分にも分かる」「自分にもできる」「もう一度やってみよう」と思える状態を取り戻すことです。そのためには、いきなり学年相当の問題に戻すのではなく、成功体験を積み直す必要があります。
簡単すぎる問題ではなく、難しすぎる問題でもない。少し努力すれば解ける問題。先生の助けを受けながら、最後には自分の力で解けたと思える問題。こうした課題設定こそが、学力再生の出発点になります。
聡生館では、学力が不十分な生徒に対して、学年を戻して学び直すことがあります。中学生であっても、小学校の算数や国語に戻ることがあります。小学5年生であっても、3年生、4年生の内容から確認することがあります。
それは、子どもを低く見るためではありません。
むしろ逆です。
本当に伸ばそうと思うからこそ、現在地を正確に見る必要があるのです。土台が崩れているところに、上の階だけを積み上げても、学力は安定しません。計算、語彙、読解、書く力、考える力、学習習慣。その一つひとつを確認し、必要なところから再構築する。これが、学力の再生です。
そして、できる生徒には、より高いレベルの問題を与えるべきです。
学校の平均的な授業だけでは物足りない子には、入試問題、思考力問題、記述問題、発展的な読解、数学的な証明、英語の長文読解など、さらに力を伸ばす課題が必要です。できる子を待たせる教育もまた、子どもの可能性を十分に伸ばしているとは言えません。
教育は、本来、子どもを平均に近づけるためのものではありません。
一人ひとりの現在地から、その子の可能性を最大限に引き出すためのものです。
学力が不十分な生徒には、再生のための学習を。
平均的な生徒には、安定して力を伸ばす学習を。
力のある生徒には、さらに高い思考へ向かう学習を。
このように、子どもの状態に応じて学びを設計することが、これからの教育には必要です。
PISA2022において、日本の生徒は数学的リテラシー、読解力、科学的リテラシーで国際的に高い成績を示しました。これは日本の教育全体の強みを示す結果です。一方で、全国学力調査などでは、家庭背景や学習経験による差も確認されています。つまり、日本の教育は平均的には高い水準を保ちながらも、その中で取り残される子どもたちへの対応には、まだ課題が残っていると言えます。
聡生館が目指しているのは、学校教育を否定することではありません。
学校には学校の役割があります。集団生活、協働、社会性、基本的な学習機会の保障。これらは非常に大切です。
しかし、学力の再生には、学校だけでは届きにくい領域があります。
一人ひとりのつまずきを見取り、必要な学年まで戻り、その子に合った教材を選び、学習時間を設計し、家庭学習まで含めて立て直す。そのような個別の教育設計が必要です。
学力が不得意な子どもは、評価される場を失いやすいものです。
テストでは点が取れない。授業では発言できない。宿題は分からない。周りと比べられる。そうした経験が続くと、子どもは学ぶ前に心を閉じてしまいます。
だからこそ、学力の再生には、評価の再設計が必要です。
昨日より計算が正確になった。
前より文章を読めるようになった。
自分からノートを開けた。
10分しか集中できなかった子が、20分取り組めた。
分からないと言えるようになった。
間違いを直せるようになった。
こうした小さな変化を評価することが、学力再生の第一歩です。
子どもは、評価される場所で伸びます。
逆に言えば、評価される場所がない子は、伸びるきっかけを失ってしまいます。だからこそ、学力が不十分な子どもにこそ、その子に合った評価の場が必要なのです。
義務教育の歪みとは、子どもを学校に通わせているにもかかわらず、学力の現在地に応じた十分な再生システムが動きにくいことです。
そして、その歪みを補う場所として、個別指導塾や学習支援の役割は、これからますます重要になると考えています。
聡生館は、学力が高い生徒だけのための場所ではありません。
また、ただ学校の授業を先取りするだけの場所でもありません。
学びにつまずいた子が、もう一度立ち上がる場所。
学力の土台を作り直す場所。
自分に合った課題で、もう一度「できる」を取り戻す場所。
それが、聡生館の考える学力再生です。
子どもの学力に、完全に望みがないということは、実際にはほとんどありません。
もちろん、すぐに成績が上がるわけではありません。時間がかかる子もいます。何度も戻る必要がある子もいます。家庭との連携が必要な子もいます。学習以前に、生活リズムや気持ちの安定から整える必要がある子もいます。
しかし、その子に合った学習段階を見つけ、適切な問題を与え、成功体験を積み直すことができれば、子どもは少しずつ変わっていきます。
教育に必要なのは、平均に合わせることではありません。
その子の現在地から、未来へ向かう道筋を作ることです。
学力の再生は、子どもを平均に戻す作業ではありません。
その子が、もう一度自分の力を信じられるようにする教育です。
そして、その教育は、小学1年生の最初から本来始まっていなければならないものです。
学力差を前提にしない教育ではなく、学力差を正しく見つめる教育へ。
同じ問題を与える教育ではなく、必要な問題を与える教育へ。
評価から外れた子を放置する教育ではなく、その子の変化を評価する教育へ。
聡生館は、そうした学びの再生を、地域の子どもたち一人ひとりに対して実践していきたいと考えています。
参考文献・参考資料
・文部科学省「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」
・文部科学省「令和6年度全国学力・学習状況調査の結果について」
・国立教育政策研究所「令和6年度全国学力・学習状況調査 質問調査の結果について」
・OECD / 文部科学省「PISA 2022 Report」
・Carol Ann Tomlinson, Differentiated Instruction 関連研究
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