
学力・人間力向上のためのブログ
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2025/10/29
“わかったつもり”を超える ― 真の理解とは何か
「先生、だいたい分かりました。」
そう言う生徒の目を見ているとき、私はよく思うのです。
――本当に「分かって」いるのだろうか?と。
学びの現場で、もっとも厄介なのは「分からない」ことではありません。
実は、「わかったつもり」になってしまうことなのです。
■ “わかったつもり”が生まれる瞬間
テスト前になると、参考書やノートを何度も読み返す生徒がいます。
一見、努力家に見えますが、実はここに落とし穴があります。
読みながら、「ああ、これ見たことある」「なんとなく覚えてる」と思った瞬間、
脳は“理解した”と錯覚してしまうのです。
しかし、それは**“再認”であって“再構成”**ではありません。
つまり、「見たら思い出せる」けれど、「自分の力で再現できない」状態。
これが“わかったつもり”の正体です。
理解したように感じるのは、脳が慣れただけのこと。
だからこそ、聡生館の授業では「見たことがある」ではなく、
「説明できる」「応用できる」までをゴールにしています。
■ 真の理解とは「自分の言葉で説明できること」
ある中学生の生徒が、一次関数の応用問題を解いていました。
公式を丸暗記していた彼は、途中まではスラスラと答えを書きます。
しかし少しひねった問題になると、手が止まってしまう。
「どうしてその式になるの?」と聞くと、
「うーん…そういう風に習ったから」と答えました。
そう、“手順”は覚えているけれど、“意味”を理解していない。
この状態では、少し角度が変わると途端に崩れてしまいます。
真の理解とは、“手順”ではなく“構造”を理解していること。
つまり、「なぜその考え方が成り立つのか」を自分の言葉で説明できることです。
そのために大切なのが、「説明する学び」です。
聡生館では、理解した内容を生徒自身が「先生役」になって友人に教える“リレーティーチ”を行います。
教えることで、曖昧だった部分が浮かび上がり、理解が一段深くなるのです。
■ 「できる」と「わかる」は違う
多くの生徒が混同しているのが、「できる=わかる」という思い込みです。
問題が解けるようになると、「もう理解した」と感じてしまう。
けれど本当に大切なのは、「どうしてそう考えたか」を言語化できることです。
“できる”は結果の記憶、
“わかる”は思考の再現です。
つまり、答えを出すプロセスを自分の頭で再構成できるかどうか。
これが「真の理解」の分かれ目です。
だからこそ、聡生館では「解けたこと」よりも「説明できたこと」を評価します。
理解を“結果”ではなく“過程”で測ること。
これが、思考を鍛える一番の近道なのです。
■ “知っている”から“使える”へ
学力が伸びない最大の理由は、「知識が使えない」ことにあります。
どれだけ公式や単語を覚えても、使えなければ意味がありません。
たとえば英語の文法。
「関係代名詞はわかってる」と言う生徒に、
「じゃあ自分の文で例文を作ってみよう」と言うと、急に言葉が止まります。
この瞬間、理解が“受動的”から“能動的”に変わります。
それまでの「わかったつもり」は、ここで初めて崩れていくのです。
真の理解は、知識を動かすことから始まります。
つまり、自分の頭でつなげ、組み合わせ、応用できるようになって初めて“理解した”と言えるのです。
■ 「思考の手触り」を感じる学びを
私が授業で大切にしているのは、
「頭の中が動いている感覚」を持たせることです。
何となく答えを出すのではなく、
「あれ?ここが分からない」「こう考えると筋が通る」と、
“考える手応え”を味わってほしい。
この手応えがある学びこそが、記憶に残り、成績を変えていきます。
“わかったつもり”を超えるとは、
知識の断片を並べることではなく、
その背後にある意味の流れをつかむこと。
それができたとき、初めて学びは「生きた知恵」へと変わるのです。
■ 結びに ― 理解の深さが人生の深さをつくる
人生もまた、同じだと思います。
「分かったつもり」で過ごしていることが、実はたくさんある。
でも本当に理解したとき、人は行動が変わり、視点が変わります。
勉強も、人生も、「真の理解」を得たときに初めて“自由”になります。
自分で考え、選び、行動できるようになるからです。
だから私は、生徒たちにこう伝えています。
「分かったつもり」で終わらせるな。
“わかる”とは、“生きる力”そのものなんだ、と。
🌙
by Dr.Kazushige.O
(一般社団法人 自在能力開発研究所・聡生館 代表)
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